仕事

たぶんその日とは関係ない日に、近くを通ったという理由で、
とあるモニュメントに立ち寄った。

花の祭りも、直接はそれと関係がないのかもしれないし、
祈りのツールとして不可分のものなのかもしれない。

その祭りの場にいる人はやはりそれとは関係なく穏やかな休日を過ごして
いる人も多く、
でも祈りをささげる人もいた。

或る日の或る時間に、一瞬にして時間が固定された場所。
あまりに射影を見すぎたために、
その人類最悪の悲劇の現実感が遠くなってしまうような危惧。

それだって人間のしたことだけど、かの地ではその結果を落としていった
人間だって、彼の属する場所において、仕事をしたに過ぎないのかもしれない。


いい仕事をした、という決まり文句があるけれど、
ある行為に対して結果が十分であるならばいい仕事というなら
これもいい仕事だというのだろうか。

ここから人類は最も大きなパンドラの箱を開けてしまうことになる、
その大元であるこれを。

そうしてみると、仕事って何なんだ?
仕事だから、という口上は理由として正当なのか?
仕事ならすべて許されるのか?

もちろんそんなはずはない、というのは世の中の法律が
少なからず仕事を制限するようにできている、という卑近な例をみれば
分かるけれど、狭いコミュニティの中では法律よりもコミュニティの論理が
先に来る事だって少なくない。

それで、悪魔的な考えが頭をよぎるのだ。

「仕事が尊い、は真実なのか?」

働かざるもの食うべからず。
という言葉に、ひとつ付け加えてみる。

働かざるもの食うべからず
「というパラダイム」

パラダイムならいつかシフトする。

仕事をすることによって悲劇が生まれるなら、
仕事をしないほうが良い。

たとえば世界中の兵士がやる気のないぐうたら兵士だったら、
危機も少しは回避されるかもしれない。

(力のバランスを考えればどうとか、そういう現実は抜きにして)

軍を離れた民の位置にあっても、仕事をすることで取り返しのつかない
結果になるという例はいくらでもある。

こうやって仕事の尊さを相対化するときに、西洋的な考え方は
一瞬だが明快な答えとなりうる。

「仕事(労働)はアダムの原罪に対する罰である」

罰であるなら赦免されるに越したことはない。

だが、

「仕事の喜び」という定型句だってある。
こうなってしまうと仕事=罰が当てはまらなくなってくる。
そこで再び振り出しに戻る。


もうひとつの単純化に、物理が少し役立つかもしれない。

仕事=
力を出してモノを或る方向に動かすこと(速度とか方向とか形とか)
つまり、力×距離。つまりはエネルギー。
(N×mでJ)
力=
モノの状態(速度とか形とか)を変える作用

ただそれだけ。
この定義に善悪も貴賎もなにもない。

そして物理にはそれが好ましいか好ましくないかの定義づけの能力はない。
1Jのエネルギーがある質量の物質に吸収されても、残酷なまでに
それだけの意味でしかない。

だからE=mc^2だって、ただそれだけの意味。
そこに善悪の意味づけをするのは人間の所作。

そして、

エネルギーがやがて熱になって、それが平衡になるなら、
一面を見ればこれほど平和なことはない。
と考えれば、ボルツマンの絶望は
ひとつの希望でもあるのだろう。

それは極端だとしても、
人間の仕事は、仕事をどれだけ減らせるかということに
心血を注いでいる面も多々ある。

もちろんそれは、無駄になる仕事の割合を減らそう、というまでのこと
だけど。

ほんとうに、ひょっとしたら
仕事をすることがすばらしいということが
パラダイムになって、そのパラダイムが転換するときが
くるかもしれない。

実は最近、プロフェッショナルという言葉に、いささか
胡散臭さを感じてもいるのだ。

本当のプロフェッショナルは、もうとっくにそんなことには気づいていて、
過剰な成果至上から自由であるためにアマチュア的な感覚を
取り入れているのかもしれない。


カルノーサイクルで排出されてくる熱を暖房に使用する、
むしろ暖房のためにカルノーサイクルを使う、なんて、
素敵なことじゃないだろうか。
たぶん1万年後には。




ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント